ドイツ東北部
メクレンブルク州生まれ。
ライプツィヒでジャーナリズムを専攻した後、労働組合の機関誌の編集の仕事に就いた。1952年に東ドイツのドイツ社会主義統一党の党員となっている。1978年には東ドイツにおいて最も有名な新聞であった社会主義統一党の機関紙
Neues Deutschland (ノイエス・ドイチュラント 「新しいドイツ」の意味)の編集長の職に就く。1981年に彼はSEDの中央委員会の委員となり、続いて1985年にSEDベルリン支部の第一書記およびSED政治局員に昇格。党の指導者たちに認められていた特権を、この頃の彼およびその家族が乱用したとして非難する向きも存在する。
東ヨーロッパ民主化の混乱の中、
1989年11月9日、外国への旅行の自由化の政令が決議される。そして夕刻、東ドイツ国内及び世界向けに
放送された
生放送での
記者会見で、決議されたばかりの外国への旅行の自由化の政令を発表する。しかし、混乱の中、
ドイツ社会主義統一党書記長 (当時)
エゴン・クレンツから渡された文書の詳細を知らされておらず、また会議の途中に中座して議事の詳細を把握していなかったシャボウスキーは「11月10日から、
ベルリンの壁をのぞく国境通過点から出国に関する規制緩和」だったのを「
ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と誤って発表してしまう。さらに記者から「(この政令は)いつから発効するのか?」との質問に対して、「
私の認識では直ちにです。」と発言してしまった。これがきっかけとなり、東ベルリン市民が東西ベルリンの境に設けられた検問所に殺到し、
ベルリンの壁崩壊へと至り、
ドイツ再統一に結びついた。