その後ズアンは南ベトナムの急速な社会主義化を推進し、計画経済に依拠する社会主義経済システムの貫徹を目指した。一方外交面では関係が悪化した
中華人民共和国に対抗するため
ソビエト連邦との関係を強化し、
1978年には
コメコンに加盟。中国が支援する隣国
カンボジアの
ポル・ポト政権(
クメール・ルージュ)を打倒するためカンボジア
侵攻を決行し、また国内の
華人を中国に追放(ベトナム側による国外追放か華人自身による亡命かで、両国の見解は一致していない)し、
1979年に
中越戦争が勃発した。こうした外交政策は国際的な孤立を招き、著しい経済困難に陥ったため、
1979年以降「新経済政策」を提唱、生産請負制の導入、農産物取引の一部自由化を進めた。
1985年には価格統制の廃止、
デノミネーションなどを打ち出したが、大規模な
インフレーションを引き起こしたため、国民の不満は高まった。党内でもより抜本的な経済改革が不可避であるとの議論が多数を占めるに至ったが、すでに病床に臥していたズアンはリーダーシップを発揮することなく翌年そのまま死去した。後継書記長にはチュオン・チンが就任し、同年12月の第6回党大会で
ドイモイを発動するまでのつなぎ役を果たした。
現在では、ホー・チ・ミンから引き継いだ祖国統一を果たしたものの、むしろその後の政策に対する批判が強く、特に「自らをホー・チ・ミンに比肩しようとした」言動があったとされているため、市民の評価は高くない。