慶長10年(
1605年)
正月に家康が、つづいて
2月に秀忠が
伊達政宗ら
奥羽の
大名を加え10万とも16万ともいわれる大軍を率いて
上洛した。同年
4月16日、家康は将軍職を辞して将軍職を秀忠に譲る。これは
天下にはもはや豊臣家ではなく徳川家が君臨することを示すものであるが、秀頼も順調に昇任を重ね、将軍就任時の秀忠の官位が
内大臣であったのに対し、秀頼は
右大臣になっていた。家康の将軍任官時には、同時に秀頼が関白に任官されるとする風聞が違和感なく受け止められており
[毛利輝元書状(『萩藩閥閲録』)、『義演准后日記』慶長七年十二月晦日条、『鹿苑日録』慶長八年四月二十日条(当時の僧録は西笑承兌)など。]、元服を前に秀吉の子として関白就任への可能性を残していた
[関ヶ原の戦いの直後に九条兼孝が関白に任官したことにより、秀頼が関白就任への可能性を絶たれたとする見解(今谷明『武家と天皇』)もある。]秀頼の存在は無視できないものになっていた。
慶長16年(
1611年)
3月、
後陽成天皇の譲位を受けての
後水尾天皇即位に際して上洛した家康は
二条城での秀頼との会見を要請する。秀頼の上洛を求める家康に対し反対もあったが、
加藤清正や
浅野幸長ら豊臣家恩顧の大名らの取り成しもあり会見は実現する
[この会見によって秀頼が家康に臣従させられたとするのが定説だが、2人の応対や礼法などを分析してあくまで対等な立場での会見であったとの見解もある。]。翌
4月、家康は在京の大名22名を二条城に招集させて幕府の命令に背かないという
誓詞を提出させた。翌慶長17年(
1612年)にも
東北・
関東などの大名65名から同様の誓詞をとっている。ただ、秀頼からは誓詞を提出させていない。